夕方、30代のときのインスタを開いた。15年前のアカウントだ。
プレミアムモルツのグラスと缶。「ヤケ酒」。

アサヒの缶と、吸い殻でいっぱいの灰皿。「クタクタ。復帰はまだまだと感じた。」

どの写真にも、生きる目的もなく、甘えている私がそこにいる。
変わったのは温度と言葉だ
今も別アカウントでインスタは続けている。しかし、違うのは写真の温度感と添えている言葉だ。
夕暮れの焚き火。「何かが動く前には、少し振り返ったり、止まったりするらしいよ。」

ろうそくを4本立てた手作りのケーキ。「愛情だけはたっぷり。」

砂浜から見た海。「来年もまた会いに行くね。」

どれも、誰かに向いている。それに対してあの頃の言葉は、どこにも向いていない。ただ置いてあるだけだ。
渡せると思っていなかった
では、なぜ向かなかったのか。
言葉を誰かに向けるというのは、渡す動作だ。だから、渡せるものが自分にあると思っていないと、その動作は出てこない。
でも、あの頃の私にはそれがなかった。周りにいる人の評価が、そのまま自分の評価だったからだ。
その評価が信じられなくなったとき、評価軸そのものがなくなった。そして私は、自分の価値がゼロになったと思い込んだ。
ゼロだと思っている人間は、誰にも何も渡せない。だから言葉は、向けずに置くだけになる。
他人軸には、他人がいない
そもそも他人軸というのは、評価される側に立つということだ。待っている側からは、言葉は出ていかない。
認められたいと思うほど、見ているのは相手ではなく、相手に映った自分だ。
それでも、あの頃はあの頃で精一杯だったと思う。
いまも必死だ。ただ、渡せるものが自分にあると思えている。
いつか70歳になった私は、もっといろんな経験をして、もっといろんな思いをしているはず。
その私がいまの言葉を読んだら、まだまだだったな、と思うんだろう。
その時まで、30代の未熟だった頃のアカウントも残しておこう。






