人の話を奪う人って、いませんか。
誰かが話している。
「こんなことがあってさ……」
まだ、オチも言っていない。
そこへ、別の人がかぶせる。
「ああ!自分もさ……」
そこから、その人の話が、永遠に続く。
最初に話を振った人の顔が、ちょっと困っている。
一歩離れて見ているから、気がつく。
それには、名前がついている
あとで知ったのだけれど、これには名前があるらしい。
会話的ナルシシズム。
相手の話題を、自分の方へ引き寄せてしまう返し方のこと。
「あ、私も」と自分の話に移すのが、シフト・レスポンス。
「いいね、それで?」と相手の話を伸ばすのが、サポート・レスポンス。
前者が積み重なると、会話は相手のものではなくなっていく。
やっかいなのは、たいてい悪気がないこと。
「わかる、私もね」は、共感のつもりで出ている。
なぜ出てしまうのか。
誰かが話すと、自分の似た記憶が、勝手に浮かぶ。
それを口にするのが、いちばん楽だから。
黙って相手のところに留まるほうが、ほんとうは力がいる。
だからこれは、特別な自己中心さではなくて、
何もしなければ出てしまう、人の初期設定に近いらしい。
奪う人の根っこにあるもの
ただ、同じことをしても、すぐ相手に話を返す人もいれば、
そのまま、自分の話を続けてしまう人もいる。
その差は、どこから来るのだろう。
子供の頃、話を聞いてもらえなかった人は、
黙っていると、自分が消えるような気がするらしい。
会話の間が空くのがこわくて、つい、自分の話で埋めてしまう。
でも、聞いてもらえなかった人が、みんなそうなるわけじゃない。
逆に、自分の話を引っ込めて、ひたすら相手に合わせる人もいる。
同じ場所から、反対の癖が育つこともある。
だから、ひとことでは決められない。
それでも、自分のことを思うと、ひとつ浮かぶ。
つい自分の話をしてしまう人って、小さい頃、
「おかあさん、聞いて!今日ね!!」
ってのを、できなかった人なのかな、と。
少なくとも、私はそうだった。
「おかあさん、聞いて」は、ただ話を聞いてほしいわけじゃない。
「それ、面白いね」と自分に関心を向けてほしい。子どもの、いちばん無防備な願いだ。
その関心が返ってこないと、願いは消えずに残る。
大人になってもその願いが、知らないうちに相手の番を奪うことになる。
まだ、聞いてほしい
今も、人の話を奪いそうになる。
でも、そのたびに、気づくようになった。
奪いたいんじゃない。まだ「聞いて」と言いたい、あの頃の自分がいるだけだ。
かの。50代。チワプーのシェリと暮らし、海のそばへの移住を計画中。
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日々の整える時間や、海のそばへ移っていく記録は、note でも書いています。
→ かの|55歳、海のそばへ移住するまでの記録





